書かれた文字を疑え、語られた言葉を疑え、いちばん悪いのは何か自分以外のものに過度に期待して判断を全面的に他者依存することだ。むやみやたらと他人を尊敬するんじゃねえぞ。
全ての文字にはうそがあると思って間違いない。俺がお前らをだまそうと悪意をもって文をかいていることを忘れるな」"
Ich lebe mein Leben und
du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
Ich bin nicht auf dieser
Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
und du bist nicht auf
dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
ICH BIN ich und DU BIST
du -
私は私。あなたはあなた。
und wenn wir uns zufallig
treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
wenn nicht, dann ist auch
das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
「ナンバー1にならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」と歌う「世界に一つだけの花」ほど残酷な歌は無いだろう。歌うのはジャニーズ事務所きってのスターグループSMAPであり、作詞作曲は稀代のヒットメイカー槇原敬之である。幾度となくナンバーワンに輝いた彼らは多くのファンにとって特別なオンリーワンであり、度々ナンバーワンにすらなった事がある。しかし、市井の人々のほとんどは彼らとは違い、誰か一人にとってのオンリーワンですら無い事実を受け入れざるをえない。代替えの可能な「ワン・オブ・ゼム(大勢の中の一人)」なのだ。
ほとんどすべての人にとって大いなる挫折を味わうのが高校生くらいではなかろうか? 自分が何者でも無いという現実と折り合いをつけて、一人で生きていけるように将来を見据えた人生設計をさせられる。
運動部で毎日、朝から晩まで練習していたって甲子園や代々木、花園になんてめったな事では行けない。行ったところでそれが飯のタネになるのはごく一握りの人でしかない。
勉強に精を出して大学へ進学し仕事の選択肢を広げても、むしろそれは「イケてるクラブオーガナイザー」や「マンU移籍のスタープレイヤー」などへの決別をも意味している。蔑んでダサいと思っていたスーツを着て居酒屋でクダを巻いて路地裏で嘔吐する日々の準備だ。
「桐島」は高校のバレー部レギュラーでリベロとしてチームを支え、彼女は学校一の美人。ツルむ仲間も主力選手として戦線復帰を望まれている野球部のユーレイ部員や、帰宅部だけどおしゃれに余念のない人気者たちだ。彼らイケてるグループの中心的な存在である「桐島」が部活をやめると言い出し、それ以来、彼女や友人たちからの連絡にも一向に答えようとしない。「桐島」の“失踪”によりツルむ仲間たちや大会を控えたバレー部員たちの関係性に変化が生まれる。
本作のビジュアルイメージになっている8ミリカメラを構えた神木隆之介くんの役どころは「桐島」や彼らイケてるグループとはバカにされる以外には接点の無い映画部の部長、涼也。顧問の先生が書いた青春ものの脚本を元にした映画を作らされるのに嫌気がさして同じクラスの映画部員の武文らと共に『生徒会オブ・ザ・デッド』なる学園ゾンビ映画製作を独断で始める。彼らだけは「桐島」の不在に心的な影響は無い。
この差こそが「桐島」なのである。
「桐島」とはイケてるグループにとっての存在意義であり、存在理由の象徴だった。イケていれさえいれば人生に悩みなど無いと思わせた。その彼が部活をやめるという事は「桐島」が「桐島」である事をやめるという意味だ。
美醜や少しばかりの運動神経の良さは人生に大した影響は無い。這いつくばるような屈辱的な日々は必ず訪れる。クールにキメてスルスルと嫌な事を避けてきた生活ももう終わりだ。「桐島」の不在はそのまま現実の直視を意味している。だから「桐島」の不在は周囲を困惑させる。
そして、多くの同級生たちにとって卒業してしまえば「桐島」はいなくなる。現実はありのままの姿で視界に飛び込んでくる。だから涼也を筆頭に映画部の連中には「桐島」の不在は別に大した問題では無かった。最初から現実は見えていたのだから。
本作はヒドく残酷にその現実をつきつける。かっこいいステップが踏めたってエクザイルには入れない。クラブミュージックに通じてセンスが良くたってNIGOや藤原ヒロシにはなれない。バスケが上手くてもNBAでプレイは出来ない。ほとんどの人は夢に見る憧れの世界ではナンバーワンでもオンリーワンでも無い。代替え可能なワン・オブ・ゼムだ。
体育の授業でのサッカーの試合を終えたイケてるグループがゴールを決めた数を競い合い一喜一憂している。映画部の武文は涼也に「体育の授業のサッカーでいくら点を取っても何の意味も無い!やつらに今それを言わないのは無駄な事をさせ続けるためだ。」と負け惜しみを言う。劇中ではそれが笑いどころになっているのだが、実はこの作品自体の根幹をあらわしてもいます。
"2008-08-01 (via bbk0524, tyano) (via noro999qqq) (via a2onaka) (via usaginobike) (via yamayoezokkuma) (via toufu) (via mokn-like) (via poochin) (via rulebook) (via ishibashi) (via soulboy) (via mnak) (via mnky) (via at1968) (via omoro) (via rakugakityou) (via hkdmz) (via sivamuramai)
「(着ている服をつまんで)…ここに火をつけて、死ぬんだよ。」
そう話した祖母は笑いながら目に涙を一杯に溜めていた。
痴呆老人によくある、わからないのをごまかすための薄ぼんやりした笑みではなく。
珍しく比較的はっきりとした意識の中で、あの時、祖母は「死にたい」と私に言ったのだ。
痴呆でぼやけた意識の中でも、祖母はちゃんと、自らの存在が家族みんなの重い負担になっていることを理解していた。
わからないこと、忘れてしまうこと、何も覚えられないことを母や祖父(と、たまに私)から叱られ、ヒステリックになじられながら、自分さえ居なければ…と、そう思っていたのだった。
ああ、そうか。
「この人たち」も、きちんと傷つくのか。
その肉体の何処かには、まだ「心」があったのか…。
それは私にとって非常に新鮮な驚きでした。
見たことある人は分ると思うのですが、それほど、痴呆の症状が進行した人の反応というのは時に鈍くて、表情も少なく、行動は多くの場合、介護する側にとって理解不能なので。
…誤解を恐れずに言えば、介助される身体というよりは、重くて動かすのが大変な”モノ”―食物を飲み込んで、排せつするだけの、ただの肉塊―嘘ではなく、そんな風にさえ思うことがあったのです。これが意思の疎通が出来ずに介護する側の、時に偽らざる心境です。
だから、目の前の相手が「死にたい」と意思表示したことに、私は心底驚いたのです。
…そして同時に、とても嬉しかった。
もう無理なんだと思いこんでいた相手との「交流」―。私と、祖母との間に、細い一本の「道」が通じた瞬間のように思えたのでした。"
逆にネットニュース、ブログにどっぷりで、そのネタに適当な解釈を加え、それを「キュレーション」なんて呼んでいる連中って残念だなって思ったりする。いや、たしかにすごいキュレーターと呼ばれる人はいる。でも、20代でキュレーション的なことやっている人って、そもそも紹介する記事のレベルが低く、その解釈もいい加減で、さらにそれに対して「いつも役に立つ情報をありがとうございます!」「シェアさせて頂きます!」なんてやっている様子って滑稽だと思うわけ。情報バカの連鎖じゃん。お前らに既存メディアを批判する資格、ないよ。
メディアはね、旧来からのものも、新しいものもミックスして、比較して読むのが大事だよね。
"映像見ている暇ないよー、という方のために以下、まとめ。
- NYCのトップクリエーターが自分の名前を検索するとAdWordsが出るように設定。
- その広告には「やぁ、○○さん。自分の名前を検索するのは楽しいよね!でも、僕を雇うのも楽しいよ!」と メッセージ。
- 広告を出したのは5名。
- 面接してくれたのはそのうち4名。
- 内定を出してくれたのは2名。
- というわけで今NYCで働いています。
- かかったコストは6ドルでした。
クリエータがエゴサーチ(自分の名前で検索)することを見越してのうまいやり方ですね。これはクリエイティブだわw。
"


